院長コラム

自転車ロードレーサーの後悔

今回は私の友人で元プロロードレーサーの宮澤崇史氏の記事(歯科専門誌Dental Diamond2019年5月号掲載)を紹介したいと思います。

『自転車ロードレーサーの後悔』

幼いころから歯磨きが嫌いでした。当然ながら歯医者も大嫌いで、「歯医者に行きなさい」と言われるたびに、ひどく憂鬱な気持ちになりました。あの「キーン」という嫌な音が、痛みとイコールなのだと頭に刷り込まれていたからです。なにしろ寝る直前まで、毎晩お菓子を食べ続けていたので、いつの間にか口の中はむし歯だらけ。乳歯だけでなく、永久歯さえも抜歯しなければならないほどでした。それでも、「イヤな歯医者に通って、何度もあの痛みに耐えるならば、歯を抜く方が一瞬で済むから、まだマシにちがいない」と考えていたほどに、歯の治療が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
そんなむし歯だらけの僕が、プロのスポーツ選手として生きていくうえでの歯の重要性に気づいたのは、かなり後のことでした。高いパフォーマンスを出すためには、「歯を食いしばること」が必要です。食いしばる、こんな当たり前の動作ができないことがパフォーマンスの低下に繋がると知ったときには、僕の口の中はすでに永久歯が2本欠落し、ブリッジをかけなければいけないという悲惨な状態でした。
選手として18歳のときにヨーロッパに渡りましたが、あちらで歯医者に通うのは日本よりはるかに大変なことです。日本のように外来を受け付けるシステムがなく、すべて予約制でした。まだ言葉がよくわからず、国の事情もよくわかっていない若者にとっては、予約さえ簡単なことではありません。
しかし、プロの自転車選手として生きていく決意が芽生えてきたそのころから、歯磨きを一生懸命する生活が始まりました。歯磨きは1日に30分はかけました。優しく丁寧に、歯肉に対して45度の角度で満遍なく。もう生えてこない永久歯にはそんな努力も無意味なことは知っていましたが、それでも口の中がいまよりも悪くならないよう、必死に磨きました。
自転車選手の僕が得意としていた技法は「スプリント」という、ゴール前で大きな力を発揮する走法でした。この場面で必要となるのは、まさに歯を食いしばって大きな力を出すことです。勝てない日々が続き、もしかすると僕が勝てないのは「歯が食いしばれない」から?そんなことが頭によぎりながらも、世界のトッププロを目指し、レースに勝つことだけを追い求めていました。
歯以外の身体的なハンデとしては、女手一つで僕を育て、そして選手生活を支援してくれた母が病に倒れ、23歳のときに生体肝移植手術で肝臓の半分を母に提供したことです。このときはさすがに、復帰まで2年以上かかりました。しかし母に負い目を感じさせないために、是が非でも日本一にならなくてはならず、死ぬ気でトレーニングを積みました。その結果、アジアチャンピオン、北京オリンピック代表を経て、移植手術から9年目にしてとうとう母と約束した日本チャンピオンのタイトルを手に入れることができました。
そして32歳になってようやく念願の世界のトップチームで走るチャンスを得て、今度はそこでよい結果を出そうと格闘を続けることになります。しかし、なかなか勝てず必死にもがく日々。「自分の歯をおろそかにした幼少期の報いでは?」そんなことを思いながら走り続けました。トップチームでは、シーズンオフに歯の問題を解決することが求められます。それは、レース期間中に歯の問題でレースに
支障を来すことのないよう、チーム側が選手に課す最低限の準備です。
引退までに、夢だった世界への扉を開けるこたができましたが「世界のトップカテゴリーで優勝する」という最終目標を達成することは、残念ながら叶いませんでした。
それはまた、改めて歯の大切さを知る機会にもなりました。
—もっと歯を大事にしていれば。
そんな後悔をしないためにも、つねに自分の体の可能性を100%発揮するベースである「健康な歯」にフォーカスしたスポーツ・マネージメントを、今後は伝えていきたいと思います。

*宮澤崇史(みやざわたかし1978年、長野県生まれ、元自転車プロロードレーサー。高校卒業後から渡欧し34歳のときに世界で最もカテゴリーの高いUCIワールドチームに所属する。在籍中には、リーダージャージ(個人総合時間賞)・ポイントジャージ(スプリントポイント賞)に日本人選手として初めて袖を通した。2014年に引退。現在は、リオモ・ベルマーレレーシングチーム監督、LEOMO. incウェアブル端末のアドバイザー、講演など多方面で活躍中。
宮澤崇史氏、DentalDiamond編集長クリニックビル新聞の掲載に協力して頂き有難うございます。